福岡市から東へ約40km、北九州市から南へ約30kmのところに人口3,000人ほどの村がある。
福岡県田川郡赤村。
コンビニのないこの村の生活を支える「赤村特産物センター」には、村民はもちろん、行橋市や田川市、北九州市、そして県外からも来客が絶えない。
赤村特産物センターに並べる商品を作っているのが、センターに併設された「赤加工所」。
赤加工所の前身から含め約20年、赤村の人々にとってかけがえのない場所になっている。
赤加工所で活躍するのは平均年齢70代のスタッフの面々。
博多どんたくでの興行、NHKへの出演、県知事、時の首相との面会など、華々しい実績を積み重ねてきた。
そんな赤加工所に今春、一人の青年が入社する予定になっている。
新しい風が吹こうとしている赤加工所について、代表の外山さん、スタッフの方々に話を聞いた。
赤加工所代表社員:外山弥生さん
赤加工所で働くみなさん
人口3,000人の村に県外から人がやってくる
豊かな山間の地に「赤村特産物センター」がある。
センター内の「赤加工所」で働くのは、地元・赤村の人たち。
「平日には一人暮らしのおじいちゃんや仕事で回ってる人がたくさん来る。土日は『テレビで見たけん』といって県外から来る人も多いよ。田舎好きな人がドライブがてら寄っていく」
赤加工所は「赤村特産物センター」をはじめ、6社に加工品を卸している。
主な商品は、白餅、あんころもち、あられ、かき餅、赤飯。
「お客さんが『ここのを食べたらよそのを食べられない』といってくれるんよ」
赤村の綺麗な水で作ったおいしい餅米と、「数をこなしていないとできない」という熟練の業からできた餅は、最盛期の12月には300万ほど売り上げる主力商品。
「今は家庭で餅をつくことも減ったから年末はすごい(売れ行き)。以前は人が交代しながら徹夜で機械を動かしていた」
赤加工所を支える12人
現在、赤加工所を支えているのは12名のスタッフ。
餅部の5人、惣菜部の6人、食堂の1人からなり、70〜80代の元気なおばちゃんたちが中心となって働いている。
赤加工所の朝は早い。
餅部は朝4時〜10時頃まで餅を作りつつ、途中の8時頃には翌日のお米の準備、あんこの用意と分担しながらテキパキと仕事をする。
「簡単そうに見えるかもしれないけど、出荷に間に合わせないといけないのでスピードが必要。出荷場所ごとに何パックいるか決まっているので頭も使う。計算を間違えないようにしないと後ができなくなる」
餅の個数に合わせて、お米、あんこを計り、芋の形を見ていくつ必要か目星をつける。
頭も体もハードだが、それも含めて「全部楽しい」と笑う。
「入って覚えるまでは大変だけど、数をこなしたらあとは慣れよ。家事の延長みたいなもの。朝は早いけど(昼間の)自由が利くので働きやすい。家におっても仕方がないし、私なんか夫が定年を迎えてから出てきた」
やりがいを感じて働いているが、やはり自分で働いてお金を得るということは素直にうれしい。
地元愛は東京へ
赤加工所の前身は、元教師の故・中原浩子先生によって立ち上げられた。
「赤村で生まれ育った先生は赤村を愛していた。『昔の農家の女性はお小遣いを持たない。自分で仕事をして、少しでも賃金をもらえるようになってほしい。村の女性に孫に好きに買ってあげたりできるようになってもらいたい』と。その思いに私たちものってついてきた」
こうしてスーパーもコンビニもない赤村に、食品が買える唯一の場所ができた。
中原先生には赤村の人々への思いと同時に、赤村の知名度をあげていきたいという思いもあったという。
「赤村のなら間違いなくおいしいよね、っていってくれるようになってほしい」
こうしてこだわり抜いた赤村の特産物であふれたお店は、瞬く間に知名度をあげてゆく。
「まだ『道の駅』という名前もない時代で物珍しいこともあり、ラジオやテレビの取材もたくさん来た。野菜があっという間に売り切れ、餅つきにきてほしいと福岡県内各地へ飛び回るような生活が10年続いた。NHKのスタジオでもお餅をついたんよ。県知事にも会ったし、地域おこしのイベントで東京にも行ったし、総理大臣にも会った」
続けて中原先生への感謝も述べた。
「先生がおらんかったら、赤村は誰にも知られないところだった。先生が築き上げたものを続けたい」
1日40万円。野菜が飛ぶように売れてゆく
今、赤加工所は中原先生の想いを継いだ人たちに託されている。
現在、赤加工所の代表社員を務める外山さんは、福岡で美容品や化粧品、衣料品の販売などを手がけていた。
赤加工所のもう一人の代表社員、金子さんのつながりで中原先生とご縁ができた。
「中原先生が私を気に入ってくれて。『あんたいいね。小倉で赤村の売り出しをしてくれる人がおらんけん、行ってくれんね』と。それで福岡から小倉に行って、赤村の野菜を売るのを手伝ったのが始まり」
ところが外山さんが目にしたのは驚きの光景だった。
「軽トラ2台分の野菜や梅干しがあっという間に売れていく。1つ100円、200円の野菜だけで1日40万円の売り上げ。え、野菜だけで?とびっくりした」
そうしたら中原先生が諭すようにいった。
「だって野菜はね、みんな食べるもんやろ。(需要が)なくならんばい、そうやろ?」
実は当時、自身の仕事に行き詰まりを感じていた外山さん。
「化粧品とかってそんなに毎回いるものじゃない。友達に『この前買ったけんいらん』といわれるなど押し売りのようになっていた。だから赤村の野菜が飛ぶように売れていくのを見て、私もこれだけ売れる商売がしたい!って思った」
赤村の商品を小倉・魚町銀天街で
「先生、店舗探すから、私に赤村の商品を売らせて?」
中原先生に直談判した次の日には、外山さんは出店場所を探しに魚町銀天街を歩いていた。
軽トラでの売り出し時にお客さんが「魚町に毎日、赤村の商品があったらいいのにねぇ」といっていたのを聞いていたから。
するとあるゲームセンター前で、以前あったクレープ屋のキッチンカーがなくなっているのに気づいた。
「ゲームセンターに駆け込んで、社長いますか?と。翌日来るということだったので、すぐに空きスペースを利用させてほしいとお願いした」
社長は企画書の提出を求めた。
「『店のレイアウトと、どういう風に販売したいのか、あなたの想いを持ってきなさい』といわれ、企画書作りが得意な金子さんと作った。そして社長と店長と会って想いを伝えたら『あんたのその意欲に負けたよ』と」
あれから15年経つが、ゲームセンター前のわずか2畳ほどの販売スペースには、今も「赤村」の看板が掲げられている。
赤村へ。引き継いだ加工所は問題の山
魚町で赤村のアンテナショップを始めて10年ほど経った頃、中原先生の家族から連絡が入った。
「(高齢になった中原先生に代わって、現・赤加工所の経営を)してもらえんやろうか」
加工所の仕事内容は知らなかったが、性格的に断りきれないこともあり赤村に来た外山さん。
加工所に入った外山さんの心の第一声は「このおばちゃんたち大丈夫かいな」。
外山さんが一番若く、加工所での人間関係はすでにできあがっている。
「納得いかないことがあればいうし、意見がある方はちゃんといってください、とコミュニケーションをとるようにした。それにちゃんとついてきてくれているということは大丈夫なんでしょう。気が弱かったらやっていけない」
と笑うが、それ以外にも問題は山積みだった。
「(金銭面の)マイナスが多かった。米の仕入れ代も払ってないし、そもそも仕入れ伝票からちゃんとしてない。売り上げが上がるのに全然手元にお金が残らないからなんでと思ったら、特産物センター内の他店舗の電気代や水道代、冷蔵庫のリース・保守代などもうちが払っていることに気づいた。そういうのをちゃんと整理するところから始まった。ただ経営を引き継ぐだけだったはずなのに…」
規則への意識も希薄だったであろう、最低賃金以下で働いていたスタッフの時給もきちんと上げた。
「(あたり前のことをしただけだけど)それでもみんな喜んだ」
経営改革と合同会社赤加工所の誕生
経営を立て直すため、苦渋の決断もした。
「以前は地産地消へのこだわりから赤村以外の商品は一切置かない、野菜も一律100円などがあったが、今はレトルト商品や醤油なども置いて、価格も一般的な相場となった。みんなで仕事をするのによくない影響を与える方にはやめていただいた」
経営努力は今も続く。
「仕入れ価格が高騰しているので、形は悪いが味はよい安い野菜や農家さんが譲ってくれるB級品を加工するなど工夫している。今までいいものを使ってきたスタッフからは不満も出るが『そういうものを活かして使おう』と声かけをしている」
外山さんのこうした努力もあり、経営を引き継いだ翌年には大きな売り上げが上がっていた。
「これだけの売上規模で個人経営は危ないということで法人化することになった。法人にすれば、雇用保険や社会保険も整い、働いている人も安心」
法人格にはいくつかあるが「加工所なのでしっくりくると思った」と合同会社赤加工所が誕生した。
伝統の餅と変化する惣菜
細やかな気配りと工夫で経営基盤を整えてきた外山さんだが、あえて変えないこともある。
それは赤加工所の代名詞ともいえる餅。
「書き入れ時の12月に300万円も売り上げてびっくりしたが、仕入れに150万円、そこに人件費がかかってほぼ消える。でも中原さんが築いてきた伝統があり、いいものを作ってきているから、餅だけは変えたらいけないかなぁという思いがある」
餅は現場に任せる一方、惣菜は外山さんが作りたいものを作れるようになってきたという。
「(古くからのスタッフと)ケンカしながらも、自分が最前線で作る。午前1時半から卵焼き、煮物、揚げ物、巻き寿司、ポテトサラダ。おかずがそろってきた頃、出勤してくるスタッフに詰めてもらう」
ハードな生活だが、生活とのバランスもうまくとる。
「夜中から仕事してるから1日が長くて、昼からの時間を有効活用できる。睡眠はしっかりとるし、休日は福岡の家に帰ってしっかり休む」
ここにしかないものは続けたい
外山さん、そして赤加工所の今一番の楽しみは、4月に15歳の青年が入社してくること。
「年末の餅づくりを2年間お手伝いしてくれて。それが楽しかったみたいで『ここに就職したい』と。その時は冗談半分かと思っていたけど、この前意思確認のために呼んだら90度深々と頭を下げて『お願いします』といってくれた」
「頼り甲斐があるし、後継者になってくれれば頼もしい」と思いつつ、まずは仕事を覚えてなじんでもらえるように準備を整える。
「今からスタッフたちに『やさしくしてね、おばちゃんたちの教育にかかってるから』と何度もいっています(笑)」
これからの赤加工所について外山さんに聞いた。
「最初は5年間やってみようと引き継いでもう4年経った。みんなとこうやって縁もできたし、簡単にやめますとは自分の中ではできない。働く場所があるからイキイキできる。『ここに来させてほしい』という方もいるし、70代、80代に負けられないなと。よく私についてきてくれてるなと感謝しつつ、もうなるようにしかならんからね」
時代の変化に対応しつつ、守るものは守りたいともいう。
「流行に流されていっている商品もあるけど、昔ながらのお餅、弁当など変わらないものも大事にしていきたい。古き良きもの、ここにしかないものは続けたい」
(取材日2023/2/8 阿部由貴)
企業情報
会社名 | 合同会社赤加工所 |
設立 | 2020年4月 |
代表者名 | 代表社員 外山弥生、金子正克 |
事業内容 | 食品の加工・販売、食堂の運営 |
所在地 | 〒824-0431 |
電話番号 | 0947-62-2929 |
担当 外山さんより
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